灰色の雲が重く垂れこめていた。空気も湿っぽく、今にも雨が降り出しそうな空模様である。
しかし雨が降ろうと仕事はある。
都内某所にあるオフィスビル。六階建てのそのビルには様々な企業の支社が入っている。
パソコンのキーを打つ音やコピー機の音に混じって鳴り響く電話。一人の男性が素早く取る。

「市丸さん、お電話です。大阪支部の業務部の方から」
「内線繋いで」

部下から内線を繋いでもらい、市丸は電話に出る。デスクのパソコン画面には作りかけの資料が映っている。

「はい市丸です。ああ、はい……」

卓上カレンダーを捲りながら市丸はメモを取る。だが、ある時滑らかに動く筆先がぴたりと止まる。

「…はい?」

少し変わったトーンに部下の吉良が訝しげな顔をする。彼が見ている間にも市丸の表情は暗くなっていく。
電話が終わる頃には通夜の顔になっていた。

「ど、どうしたんですか?」
「半年延ばすねんて」
「えっ?」
「まだボクここにおらなあかん」

市丸の言葉に吉良は内心ガッツポーズをした。彼がいれば仕事が定時に終わるからだ。
しかし当の本人はうんざりした様子でうなだれた。彼は長期出張で東京に来ているのだ。
大阪の本社は当初二年間の話で彼に命じた。しかし何だかんだと引き延ばされ、もう三年目を迎えた。先程の電話が本当ならプラス半年になるだろう。
特にこれといって早く本社に戻りたい理由はない。ただ東京の空気が苦手なのだ。ついぽろっと訛りが出ると「ああ」という顔をされる。道を訊いても皆足早に去って行く。
市丸はカレンダーをまた捲った。数ヶ月後には帰れる予定だったのに。新幹線のチケットを買うことまで考えていた。今は扇風機を修理することを考えなくては。

「大変ですね、何だか」
「……まさか左遷とちがうやろか」
「そんなことありませんよ。市丸さんはすごいと思います。定時に帰れるのって市丸さんが来て下さってからですよ」

吉良はぎゅっと拳を握って力説した。部下の慰めも市丸には足りない。ありがとうなぁ、と礼を言ってからまたパソコンに向かった。



六時頃、雨が降り出した。きらきらと大粒が窓硝子に着地して流れていく。雨音を煩わしく思いながら市丸はキーボードを打つ。あの電話のせいで調子が狂い、いつものようにさくさく仕事が進まない。
向いのデスクで吉良が引き出しから折り畳み傘を取り出した。彼はすっかり帰り支度が整っていた。

「本当に先に帰ってもいいんですか? お手伝いしますよ」
「ええよ。先帰り。これボクの仕事やし」
「では……」

目の前から気配が消えたかと思うと吉良はコーヒーメーカーの前にいた。そして一杯のコーヒーを市丸のデスクに置く。市丸は頬を緩めた。

「…ありがとう」

よう出来た奴や。コーヒーを啜りながら市丸は思いを巡らせる。
吉良は市丸より先にこの支社にきていた。柔らかく控え目な彼は陰に日向に市丸を支えている。このコーヒーのようにこまめな気遣いができ、市丸の女房役とからかわれることも多い。
いつか彼はボクを置いて上へ行く。年齢差もあり、そんな親心に似た気持ちを抱いている。いつか部長クラスにはなれるとからかえば市丸さんが先ですよと笑う。
生きる為に嫌々働いている人間に高みを目指すことは面倒くさいオプションだ。
伴侶のいない市丸は自分一人なら食べていける収入を得ている。これといって金を注ぎ込む趣味もなく、散財しなければ良い老後を迎えられる。何の不便もない。
ふと腕時計を見ると七時になっていた。
随分静かだとオフィスを見渡すと疎らに人が残っているだけだった。

「…早よ帰ろ」

残ったコーヒーをぐいっと飲み干して市丸は帰り支度を始めた。
残っている人間に声をかけて市丸はビルを出た。先程より雨脚は和らいでいる。これなら走って帰れるか。頭の中で最短の帰り道を思索し、走り出す。
街に咲く傘をすり抜け、薄暗いトンネルを通り、私有地に踏み入り、塀を乗り越えて。近所を探検する小学生みたいに市丸は道なき道を駆けた。
市丸はようやく自宅近くの小さな公園に辿り着いた。静かな暗闇に靴音が響く。おかげで雨が止んだことに気付く。
白い街灯を友としながら、市丸はぼんやりと夕飯について考えていた。昨日の残りをまた温めるか、それとも適当に作るか。光熱費を節約したいのでこの選択肢は大変重要である。

「うーん…どないしよ。南瓜あったしなぁ……ていうか醤油なかった」

溜まっていた独り言が口をつく。しかしはたと口を押さえた。
行く先のベンチに誰かが座っているからだ。
市丸は急に羞恥心が芽生えた。昔から独り言には悪い縁しかない。
どうか聞かれてませんように……。祈りながら歩を進める。
街灯に照らされてベンチに座る人間が判明した。
まだあどけなさの残る少女だったのだ。市丸は正直驚いた。

「(今何時や思てんねん。もう七時過ぎてるで。親は何しとんねん…)」

少女と分かったのは短いプリーツスカートを履いていたからだ。体つきも丸みを帯びている。上半身はサイズの合わないシャツ一枚。まだ寒い日もある今頃にはちょっと厳しい格好だ。
警察を呼ぶべきか。いやもしかすると誰かと待ち合わせをしているのかも知れない。色々と一人で思案する市丸。少女を意識するあまり歩き方がゆっくりになる。

「なあ」

突如、少女が声をかけてきた。

「…なんや」
「お前の願いを叶えてやろうか」

緑の黒髪に麗しい紫の瞳。まるで人形のようだと市丸は足を止めた。色々煩いこのご時世。妙な因縁をふっかけられるかもしれないとは思いつつも、市丸は少女を放っておけなかった。

「願い、て? 何でもええの?」
「ああ」

少女は自信ありげに答える。しかし表情はあまり変わらず、微かに口角が上がったぐらいだ。
この少女がいくつかは分からない。大人ではないことは確かだ。市丸は溜め息を吐いた。

「自分、家どこや」
「家?」
「アホみたいなこと言うてらんと早よ帰り。お母さんお父さん心配するやろ」
「心配?」

市丸の言葉に少女は度々目をぱちくりさせる。初めて耳にした言葉のように。
触ったらあかんもんに触ってもうた。後悔する市丸だが、そもそも声をかけてきたのは少女の方なので自分は悪くないと思う。

「ここらは夜になったら危ない。危険な目に遭う前に早よう帰り」
「危険な目?」
「危ないおっさんらに暗がりに連れて行かれてああだこうだされたりするんや」
「ああだこうだ…?」
「せや。色々な人がおるから気ぃつけんと」
「お前は危ないおっさんなのか?」
「ちゃうわ!」

思わず気質が出る。声にびっくりした様子の少女に罪悪感を覚えながら市丸は諭す。

「ボクはちゃうよ。もっと危ないおっさんらが……」
「家などない」

少女が変わらぬ調子で言う。

「心配してくれるお母さんお父さんもいない」
「家出…やないな。他に知り合いは?」
「いない。一緒にいた人は死んでしまった」

…いきなり重い話になった。気まずい雰囲気が漂う。市丸の頭に物騒な文字が沢山浮かんだ。もしかするとこの少女は何かの重要人物かも知れない。

「いつからここおんの?」
「分からぬ」
「お腹空いてへんの?」
「空いていない」
「他に帰るところはあるんか?」
「ない」
「…一緒におった人の家は?」
「もし私が死ねばどこか好きなところに行けと言われた。戻って来るなとも言われた」

淡々と少女は答えた。その台詞から察するに「一緒にいた人」は病でも患っていたのだろうか。それともその身に危険が迫っていて、少女を逃そうとしたのか。
どちらにしろ少女に帰る家はない。警察に届けた方が良さそうだ。
市丸は携帯電話を取り出して警察に通報しようとした。しかし電波状況が悪くなかなか繋がらない。辺りは住宅街で背の高い建物などはないのに。
気付くと少女が携帯電話を耳に当てる市丸の真似をしていた。からかわれている気がして携帯電話をしまう。

「……うち来るか」
「!」
「野宿するよりかはマシやろ。一晩だけ泊めたるわ」
「良いのかっ?」
「一晩だけな。明後日になったら警察行きや。道教えたるから」

決して他意はない。ただの憐れみだ。少なくとも自分はロリータコンプレックスではないからこんな少女に手を出すこともない。あくまでこの少女はインテリアだ。

「名前は?」
「ルキアだ」
「変わった名前やな」
「一緒にいた人が付けてくれたのだ」
「さよか」
「お前の名は?」
「市丸や」
「下の名は?」
「ギン、や」

今時二文字の名前は珍しい。しかもカタカナ。昔の名前みたいで古臭いと市丸本人は嫌っている。
不躾な子だと市丸は少し腹を立てた。しかし泊めると言ってしまったし、そこそこ美人なので顔には出さずに大人として振る舞う。
自宅への帰り道の足音がもう一つ増えた。





朝、携帯電話のアラームで市丸は目を覚ます。
目を擦りながら体を起こすと背中に痛みが走った。何故なら昨晩は床で寝たからだ。
ルキアと名乗った少女を気遣い、風呂と布団を提供した。寝間着もジャージを貸してやった。
その結果がこれだ。
立ち上がって大きく伸びをする。軽く肩を回すとべきべきと音がする。
とりあえず顔を洗いに洗面所に向かう。
さっぱりして戻ってくると布団の上に座り込むルキアを見つけた。首をがっくりと前に折り、まだ眠そうだ。
声をかけるべきだろうか。

「…まだ寝ててもええよ」
「……?」
「起きてしもたんか?」
「ああ」

口を少し開けてルキアは眠たそうに答える。まだ七時だ。家を出るのは八時なのでそれまでに起きてくれれば良かった。だがそう言ったところでこの少女が従ってくれるかどうかは分からない。
微睡むルキアを置いて市丸はワイシャツとスラックスに着替える。恥ずかしいとか遠慮という気持ちはない。ちなみにネクタイは朝食を終えてからと決めている。

「起きたんやったら顔洗っといで」
「ああ」

むくりと立ち上がるとルキアはぺたぺたと廊下を歩いていく。ジャージから覗く足を見て市丸は気付いた。
昨晩、靴を脱いだルキアの足首には痛々しい靴擦れがあった。長時間歩いたせいだと彼女は言った。消毒して絆創膏を貼るよう言ったがすぐに治ると言って何もしなかった。
それが今朝、確かに治っている。血が出てじゅくじゅくの状態だったのが瘡蓋すらも残っていない。
おかしな子やと思いつつ市丸は朝食の準備をする。一晩だけの約束だから今日でお別れだ。警察に行かせれば何とかなる。
まだ足元の覚束ないルキアをテーブルに就かせて朝食を取らせる。さすがに警察でも食事は出ないだろう。

「これは?」
「は? パンやろ」
「違う、これは?」

トーストと牛乳、そして炒り卵とウインナー。うん、久々にまともな食事を作った。そしてルキアがフォークで差したのはウインナーだ。

「ウインナー、やろ」
「何だこの形は! この姿で売られているのか?」

ルキアはきらきらと瞳を輝かせてウインナーを見つめる。市丸は顔を手で押さえた。噴き出しそうになったからだ。

「ちゃうよ。ボクが切ったんや」
「お前が?」
「せや。タコさんウインナーて言うねんで」
「タコさん……!」

タコさんウインナーとは子供の弁当によく入っているあのウインナーである。包丁でちょちょいと切れ目を入れて焼いて出来上がり。
知らない人はいないであろうおかずにまさかあんな反応をされるとは思わなかった。
子供だか大人だか分からないので子供扱いしてみたが、何か違う気がする。

「自分、年いくつや」
「私か? 私は……いくつだったか」
「自分の年分かれへんの?」
「数える意味がないから忘れてしまった。知ったところで役には立たぬし」

堅い口調とは裏腹に炒り卵を美味しそうに頬張る。ますます分からない。
コーヒーを啜りながら市丸は最寄りの警察署までの道順を紙に書いていた。目印となる建物を書き込み、なるべく大きな道を通らせるようにした。我ながらなかなか親切だ。

「この地図見ながら警察署行ったらええわ」
「警察署?」
「素直に色々話すんやで。一緒におった人のこともな」

一緒におった人、と言うとルキアから僅かに明るい雰囲気が消えた。やはり何かあったようだ。
そうこうするうちに、テレビに表示されている時計は八時になりかけていた。

「あ、ボクもう行くわ。途中まで送ったるわ」
「ありがとう」

にこっとルキアが笑った。なんや、ちゃんと笑えるんや。公園で会った時から表情らしきものを見せなかったルキアが初めて感情を露わにした瞬間だ。
マンションを出て昨晩の公園を抜ける。暫く歩くと大通りに通じる道に出る。時間が時間だけに同じようなサラリーマンや学生が何人か歩いている。

「そしたらボクこっちやから。ちゃんと行くねんで」
「ああ、ありがとう。世話になった」
「気ぃ付けて」

二人はそれぞれの道を歩き出した。
…………はずだった。




今日は早めに仕事が終わった市丸がのんびりと道を歩いていると、マンションの入口に人影を見た。それは座り込むルキアだった。

「何しとるん、自分」

思わず声をかけるとルキアは顔を上げて嬉しそうな顔をした。完璧に懐かれた。
足を止めた市丸に彼女は駆け寄る。

「警察署は?」
「行ったぞ」
「それで? …あ、せや」

よく考えれば市役所などにも行かせるべきだったのではないか。しかしまずは警察署だろう。きっと迷子という扱いになるに違いない。

「誰か保護者を連れて来いと言われた」
「保護者ぁ? そんなんおったら警察行かんやろ。向こうはそれだけ言うたんか?」
「身分を証明できるものはないかとも言った」
「あらへんのやろ?」
「もちろんだ!」
「誇らしげに言うな、アホ」

腕を組んで自信たっぷりに言うルキアに市丸は呆れ気味に言った。あまりに役所仕事すぎやしないか。

「とりあえず知っていることは全部話したぞ。笑われたがな」
「笑われた?」
「身分を明かせと言われたから言ってやったのだ。私は悪魔だとな!」
「はっ」

無意識に鼻で笑ってしまい、ルキアがむっとした顔で市丸を見る。

「何だ」
「悪魔て……そら向こうの人も笑うわ」
「事実なのだから仕方なかろう。他に言いようがない」

不服そうにルキアは頬を膨らませた。そうやっていると幼く見える。市丸は側の自動販売機で紅茶を買うとルキアに放り投げた。

「くれるのか?」
「うん。せやから続き話して」

二人は昨晩出会った公園のベンチに腰掛けた。疲れているはずなのに何だか楽しい。悪魔などと現実離れした話を聞くからだろうか。

「私の生まれは欧州の北の国。オカルトをかじる奴らの召還術によって喚ばれたのだ」
「へぇ、召還術? コックリさんみたいやつか?」
「あんなちゃちなものでは呼べぬ。死体を使った本格派だ」
「死体……」

何の死体を使ったのか気になったが深く掘り下げないでおく。北国生まれだから色白なのか。それくらいしか市丸は思わなかった。

「まさか奴らも本当に喚び出せるとは思っていなかったのだろうな。私を見ると逃げて行ったぞ。だが一人だけ逃げぬ人間がいた」
「それが……前一緒におった人?」
「そうだ。奴は律儀というか真面目で、私の世話を焼こうとした。この服だって奴がくれたのだ」

じゃあ短いスカートはその人物の趣味なのだろうか。他人が口出しすることではないので黙っておく。市丸としては長いスカートの方がそそる。

「ふーん。で、いつ帰るん?」
「帰れぬ。呼び出した奴が私を送り返す前に死んでしまったからな」
「……それで?」
「別にこれといって困ることはないのだが……暇でな。願いを叶えてやるのも飽きた」

あーあとルキアは溜め息を吐いた。そういえば初対面の時にも口にしていた。

「あれほんまなんか」
「ああ。嘘は吐かぬぞ。魂の足しにもならぬからな」
「足し?」
「私が願いを叶える度にそ奴の魂を削っていく。削った分は私の魂に同化して私が元気になる」
「ようは腹の足してことか。悪趣味やな」

悪趣味ではない! とルキアが怒るが市丸はけらけらと笑った。

「何ができるん? 時間を巻き戻したり?」
「おやすいご用だ。死んだ奴を生き返らせたりもできるし、お前らが瞬間移動と呼ぶものもできる」
「へー。それって何個まで言うてええの?」
「そ奴の魂がなくなるまでだ」
「魂、な……まあええわ。一個叶えてや」
「何をするのだ?」
「あの桜の木、咲かせて」

市丸は目の前にあるソメイヨシノの木を指した。梅雨に入りかけた今の時期に桜など咲かない。機械を使って温度調節をしても難しいだろう。ルキアの酔狂な話を信じておらず、遊び半分の発言だった。

「よし、分かった。満開で良いか?」
「うん」

半笑いの市丸が返事をするとルキアは立ち上がって桜の木に近付いた。手頃な薄緑色の葉を一枚摘むと、ふっと吐息を吹きかける。
すると忽ち、枝の間から小さな蕾が芽生えてぽんっと小さな花を咲かせた。そこから全体に同じ現象が広がり、あっという間に薄桃色の桜が満開になった。4月に見かけた以来の姿である。

「これでどうだ」
「……ほんまに?」
「だから言ったであろう。何でも叶えてやると。他には?」
「他に、は……っ!」

呆然とする市丸の頭に激しい痛みが走った。思わず眉を潜めるとルキアが笑う。

「お前の魂をもらったぞ」

魂を貰うとはこういうことか。頭痛の治まった市丸は少し後悔した。ルキアが本物だということは分かったのだが、この咲かせた桜はどうしよう、と。