麗らかな春の日差し。新芽が萌え、始まりを彷彿とさせる空気。
けれど吉良イヅルはそんなに清々しい気分ではなかった。
彼は電車で気分が悪くなった。駅のトイレである程度吐いてすっきりしたが、遅刻をした。
おまけに、生徒指導室で業間遅刻の書類を書いていると、貧血を起こした。

「(……久しぶりに来たのに)」

頭が痛い。視界はぐらぐら。
瞬きを繰り返して辺りを見る。ここは保健室のようだ。ベッドの足元に鞄とブレザーが置かれている。
いつから自分はベッドに横になっているのだろうか。そんなことすら分からない。
高校生活のおよそ半分を過ごした保健室。養護教諭ともすっかり顔見知りだ。
彼らは吉良イヅルの出席日数が足りないことも知っているだろうが何も言わない。
居心地がいい。妙な言葉をかけず、カーテンで仕切られた保健室は自室以外で安らげる、唯一の場所だった。
寝相を変えると腕時計が目に付く。一時限目の最中だ。久しぶりにやる気を出したらこれだ。
溜め息を吐いて瞼を閉じかけた瞬間、

「失礼します。転んでしまったんですけどー……」

少し低い女子の声。誰だかは知らない。吉良は布団を頭まで被って無視をする。

「先生? いらっしゃらないんですか?」

珍しい子だと吉良は思った。今時、教師にきちんと敬語を使う生徒は少ない。
ましてや相手は養護教諭である。砕けた態度の生徒が多い。
そういえば教諭は、吉良が気付いた時から部屋にいなかった。女子生徒の困惑した雰囲気が伝わってくる。転んでしまったということは体育の授業だろうか。
溜め息が聞こえる。ああその気持ちは分かる。担当教員には保健室に行って来ると伝えているのだろう。しかし手当てをしてくれる教師はいない。戻ったところで足は痛いから満足に授業を受けられない。
だが、サボれると考えるのも一つの手だ。見ず知らずの女子にサボタージュを強要するのも如何なものかと思うが、吉良は思った。
どんな子だろう。ふと興味が湧いた。しかしぱたぱたと軽い足音が聞こえて身を硬くする。

「――――……吉良?」

降ってきた声に吉良はびくりとした。布団の中で目を開けて少しだけ上を見る。天井と薬品棚の他に黒い影が見える。
誰だろう。何故自分の名前を知っているのだろう。黙っていると影はまた口を開いた。

「吉良、だな? 私だ、ルキアだ」
「…えっ」

思わず声が出た。恐る恐る布団から亀のように頭を出す。
目の前には体操着姿の女子が立っていた。顔の真ん中に垂れ下がる長い一本の髪と肩で跳ねる髪。光の加減で紫にも見える深い紺色の瞳。
その顔には覚えがある。朽木ルキア。小学校と中学校が同じだった少女だ。まさか高校まで一緒だとは思わなかった。

「久しぶりだな」
「えっ、あ、うん」
「今登校したのか?」
「うん」

まさか駅のトイレで吐いていて遅刻した、なんて言えなかった。
実を言うと吉良は半分引きこもりのような生活を送っている。外出も億劫で、今日登校したのもおよそ二週間ぶりだった。
軽い鬱病なのも精神病院に通っているのも大量に薬を飲んでいるのも自傷癖があるのも内緒。もちろん彼女も知らない。

「……先生を知らぬか? 怪我をしたのだが」
「知らないよ。僕がここで寝てたら、いなくなってた」
「そうか。どうしようか…」

ルキアは腕組をした。吉良が視線を下に遣ると、彼女の膝から下にかけて赤くなっていた。てらてらと傷口が濡れている。

「一応消毒しておかないと…」
「どうして?」
「え?」

ルキアが真正面から吉良を見た。吉良は目を逸らす。昔から人と顔を合わせるのは苦手だ。人の視線や仕種が怖いのだ。

「化膿したら困るだろう」
「あ、うん。そうだね」
「お前、消毒液の場所などは分かるか?」
「うん?」
「…消毒液を借りるだけだからな」

誰に言った訳ではない言葉に吉良は少し驚いた。

「そんなことしていいの」
「借りるだけだ。で、場所はどこだ?」
「三つ並んだ棚の真ん中、左の硝子扉、下から二番目の棚」
「ありがとう」

ルキアが吉良の前から姿を消す。足音、棚を開ける音。普段からお喋りをするほどの仲ではないので二人とも無言になる。

「ガーゼは?」
「一段下の棚」
「絆創膏」
「右の硝子戸、一番下の棚の箱」
「ありがとう。よく知っているんだな、お前は」

常連ですから。内心の呟きに鼻で笑う。まだ頭痛がする。
液体の音。微かにアルコールの匂いが漂う。小さく呻き声が聞こえる。そういえばどうして怪我をしたのだろう。

「なんで」
「え?」
「…どうして怪我したのかって思って」
「サッカーだ。相手の脚が当たって転ん…っ、いた」
「そう」
「お前は? この後授業に出るのか?」
「出るよ、一応は」
「そうか。時間割は分かるか?」
「物理じゃないの?」
「五時間目と変更になった。数Aだ」
「えっ」
「あと席替えもしたからな」

ちょっと行かないだけでこんなにも変わっている。吉良は無理矢理体を起こした。彼女との会話で、湧いた微かなやる気がみるみるうちに消えていく。
ブレザーに袖を通して鞄を持ち、衝立から姿を現すととルキアが見た。

「どうした」
「やっぱり帰る」
「えっ?」
「やる気がなくなった」
「教科書なら見せてやるぞ」
「いい」

彼女の好意は有難い。これは本当だ。あと、この高校も彼女が受験すると知ったから受けた。
不思議なことに三年間クラスが一緒で嬉しかったけれど、それだけでは毎日登校する理由にはならなかった。
道端に咲いているたんぽぽが実は温室育ちの胡蝶蘭だったのです、と吉良は彼女を取り巻く人間達の感情を知って項垂れた。

「せっかく来たのだから一時間くらい受けろ」
「面倒くさいからいい」

ルキアが一瞬無表情になった。そして眉を顰めて絆創膏を貼ろうとする。

「いい加減授業に出た方がいいと思うぞ。お前の為にも」
「じゃあ帰っても別にいいでしょ。それこそ僕の勝手だ」
「六年間皆勤賞だったのは誰だったかな。絵画コンクールで佳作を貰ったのは誰だ」

それは小学校時代の吉良の功績だった。今はそんな目立つことはしない。他にも水泳や工作で色々と賞を貰ったし、たくさん褒められて……毎日学校が楽しかった。
絆創膏を貼り終えたルキアは出たゴミを屑かごに放り込む。どこか冷たい雰囲気を纏っている。

「別に小学校時代を持ち出してどうこう言うつもりはないが……お前、どうしたんだ」
「君には関係ないでしょ」
「クラスで一、二を争うような頭の良かった奴が、何故こんな低い高校にきたんだ。お前の家からは遠いだろう」
「それも君には関係ない」
「ばぁーか」

ドスッと鞄が床に落ちる。

「は?」
「ばぁーか」
「何なの、いきなり。君にそんなこと言われる筋合いないんだけど」

吉良が言い返すとルキアは鼻で笑った。それが頭にくる。頭に血が上って顔が熱くなる。
……そういえば久しぶりに怒った。

「おお、怒った怒った」
「君、僕を何だと思ってるの」
「無表情だからマネキンかと思ったぞ」
「っ、あのね…!」

掴み掛りたいのを我慢して吉良は拳を握るだけにする。さすがに女子に手を上げてはいけないと思う。男なら胸倉を掴んで床に放り投げているところだ。
何とかやり返せないか、とルキアを眺める。

「…相変わらず小さいね、君。いつも前から数えた方が早かったよね」
「何だお前は。人の身長まで知っているのか。気持ち悪い」
「あと、薄い」
「何がだ」
「それ」

じっと胸を指す。かっとルキアの頬が赤く染まる。思わず鼻で笑う。やはり気にしていたようだ。
同年代の女子に比べてルキアの胸部は薄い。中学生のようだ。はっきり見たことはないが。
表情を観察すると、ぎゅっと唇を噛みしめている。優越感で唇が歪む。

「君、まだ中学生で通るんじゃない? 良かったね、子供料金で。安いよね」
「…なかなか言うではないか、根暗。中学校とは大違いだな。お前はいつも泣いていて――」

握っていた拳が開いた。
次に感じたのは自分の掌の肉ではなく、痩せた膝小僧と細い足首だった。汗に混じって微かにいい匂いがしてくらっとする。
そしてゴツゴツした骨の感触。硬い爪。舌に覚えた違和感は糸くずだろう。

「ひっ…!」

そんな情けない声が聞こえた。
吉良は、親指から人差し指、甲、足首まで丁寧に唇を寄せる。踝に噛みついた。細い足首に無駄な肉はなく、骨の感触がダイレクトに伝わる。
脛もなかなか硬かったし、口に咥えるのは少し難しかった。しかし規則的に小さな噛み痕を残していく。

「っ……邪魔」

上履きと黒いハイソックスは案外簡単に脱がせることができた。適当にそれらを放り投げてまた指から堪能する。
形の良い爪。剥がしたい。剥がして保存したい。
甲。微妙な角度が堪らない。犬歯を突き立てて赤い痕を残す。
足首と踝。足で一番細くて脆い部分。けれど骨の感触も一番リアルだ。
脛。筋肉が付いていて柔らかい。捌いて食べられそうだ。
膝。角度によって筋肉が動いて面白い。そして可愛い。
骨と肉の感触を愉しんでいると、頭に衝撃を受けた。思わず顔を上げる。

「何」
「いいいいい加減離せ! 莫迦者ッ!」

ルキアが叫んだ。吉良はきょとんとする。

「は?」
「いいいいつまで、そうしているのだ! 早く、早く退け!」

ぐいっと額を押されて吉良は尻もちを突く。体は小さくとも力はあるんだな。ぼんやり思ったが、ふと我に返る。鼻につくアルコールの香り。

「僕、今――……」

脚を、舐めていた。