姉さんが恋に破れた。
相手は勤め先の上司。年上で優しい人だったのだという。
けれど彼は事故で亡くなってしまった。
おまけに彼には妻がいた。
もとから勝ち目の薄い戦いだったが、もはや微塵もなくなった。

「姉さん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」

姉さんは嘘吐きになった。
大丈夫じゃないのに大丈夫だと言う。
昨晩も夜通し啜り泣いていたのに。

「顔色が悪いよ。休んだ方がいい」
「大丈夫だ」
「ご飯だってろくに食べてないじゃないか」
「お腹が空かないんだ」

そう笑う顔は青白くて痩せていて。僕なら姉さんにこんな顔をさせない。死人を殴れるのなら殴るよ。

「お前こそ学校はいいのか? 遅刻するぞ」
「僕はいい。姉さんが心配だ」

僕は恐れていた。
姉さんが死ぬんじゃないか。あの人の後を追うんじゃないか。
だから独りにしておけない。

「こら。学生は勉強が本分だろうが……」

僕の腹を叩いた拳は小さかった。以前よりも痩せて尖っていた。

「姉さん」

手を繋ぐなんて何年ぶりだろう。姉さんの手は小さくて冷え切っていた。
僕の手はあの人の手にはなり得ない。
でもこうしないと僕が耐えられない。……姉さんを離したくない。

「僕は姉さんの傍にいるよ」

姉さんはきょとんとした。

「うん?」
「だから、あの人のことは忘れて」

今、僕は姉さんに死刑宣告をしたに違いない。
けれど姉さんから抗議の言葉はなかった。
ただ呆然としていた。僕をじっと見つめていた。

「……イヅル?」
「姉さんは僕の一番だ。だから姉さんも僕を一番にしてよ」
「イヅル?」
「好きだよ、姉さん」

隙だらけの姉さんを抱き締める。久しぶりに嗅ぐ姉さんの匂い……頭がクラクラする。
僕の背中に指が食い込んだ。僕を引き剥がそうとシャツを引っ張る。

「イヅル…イヅル、」

姉さんの声は悲しくて切ない。その些細な拒絶は僕の胸にナイフを突き刺すかのようだ。
姉さん。僕だけの姉さん。
僕はあなたの好きなもの嫌いなもの、癖や秘密も沢山知っている。
僕以上に姉さんを深く知っている人間なんて要らないんだ。
僕は姉さんの唇を奪う。
少し前に飲んだコーヒーの微かな苦味が混じる、甘い口付け。
姉さんの唇は小さいけれど柔らかかった。

「……    、   」

十八年間抱いてきた胸の内を晒す、それはとても神聖な言葉だった。
恥ずかしさなど微塵もないし、むしろ誇らしさを感じる。
姉さんは何も言わずに俯いた。
僕はずっと姉さんを抱いていた。