君は知らない。
自分がいかにきれいか。
自分がいかに優しいか。
自分がいかに好かれるか。



自室の本棚を整理していると懐かしいものを見つけた。
昔、真央霊術院に通っていた時に失くしたプリントだった。

「(なんでこの本から出てきたんだろう。ていうか、この本って……)」

ただしまっているだけなのに書物は劣化する。埃を払った、擦り切れた背表紙に氏名が書かれている。
その氏名は自分のものではない。
理解した瞬間、ぼっ、と顔が火を吹く。
薄い胸に本を押し付ける。その人を抱き締めるみたいに。
――本物に手は届かないから。
どうして返さなかったんだろう。それとも貰ったのか。いやそんなはずはない。彼もこの本が必要だったはずだ。
驚きに立ち尽くしたままイヅルは表紙を捲った。
その本は鬼道に関するものだった。日付を見て過去を思い出しながらページを捲る。
イヅルは比較的鬼道に優れていたからそれほど苦労はなかったが、恋次は苦労していた。あちこちに焦げ跡や穴を作っては怒られていた。
そういえば彼も鬼道は得意だった。現在副隊長の恋次を上回るかもしれないくらいに。
ふとページの端に落書きを見つける。

「(これは……何?)」

彼はよく絵を描いていたけれど、その腕前はあまり良くない。抽象的とか印象的とかそういう次元ではない。本人もあまり見せたがらなかったからその絵を目にすることは少ない。
鬼道に関するコツを走り書きしているその隣に何かの動物が描かれている。顔は丸い。耳が三角形で尖っているのだけれど、あまりに鋭くて角に近い。目は三角形を横に倒している。
まあその落書きが何かは後にしよう。
ページを捲っていくにつれて鬼道の内容は複雑になっていく。走り書きも増えていくが落書きも増えていく。
しかしあるページから突然走り書きも落書きも無くなっている。むしろページ自体が触られたこともないようだ。きっとそこから自分が借りたのだろうとイヅルは推定する。
いつどの鬼道を修練したかまでは覚えていないが、我ながら綺麗に使っていると思う。昔からものは大事に扱う性格だ。
一通り読み終わって背表紙を眺める。
筆で大きめに書かれた氏名。けれど走り書きの文字は小さかった。
流魂街出身の彼にとって真央霊術院は居心地が悪かったと後で聞いた。仮にも貴族の端くれだったイヅルはそれほど苦痛ではなかったためその心は分からない。
明るくて小さい子供に慕われる落ち着いた彼が、毎日些細なことで見下される己に嫌気が差していたことにも気付かなかった。
イヅルが席官となって再会すると、彼は雰囲気ががらりと変わっていた。
あの朽木家に養子入りし、義姉であり六番隊隊長である朽木白哉とただならぬ関係にあると下卑た噂が飛び交う中で、彼はどういうふうに歪んでいったのだろう。
完璧を目指し、感情を仕舞い込んでどんどん義姉に似る彼は痛々しいと思った。無理をしているのは明らかだったけど口出しできるほどの身分ではなかったし、イヅル自身も忙しかった。
思い返せば、あれは逃げているだけだったのかもしれない。 イヅルは溜め息を吐いた。何故だか鼻がツンとする。埃のせいか。
本当に好きなら時間を作って会いに行けばいい。会えるようにタイミングを見計らえばいい。努力をすればいい。

「……それを、私は」

すっかり忘れていた。君を好きなこと。
けれど君にとって私が好意を抱いていることはどうでもいい。知る必要のない、知らないことを無理に知る必要はない。これは私の一方的な片思いだ。
誰も知らないのだから黙っておけばいい。永い時の中で刹那的感情はいずれ忘れる。
でも、思い出した。
あの黒崎一護とかいう少女。
自分の危険も顧みずに、処刑される彼を救おうと尸魂界に乗り込んできた。自分の恩の為に。家族を守る力をくれた彼を。
ただ霊が見えるだけの少女があんな短期間で卍解を会得するまでに頑張った。血反吐を吐くような辛さだっただろう。何人もの隊長格を退け、血塗れになりながら。
そこまでして黒崎一護は彼を助けたかった。

「私もそれくらいすれば……」

いや出来ない。イヅルは頭を振った。地位と他意で縛られていたイヅルにそれは難しいことだった。
ついておいで、なんて。
イヅルは再び頭を振った。本を本棚にしまうと部屋を出る。
いつの間にか外は暗くなっていた。おまけに雨音さえ聞こえる。全く気付かなかった。
縁側を通ると濡れた庭が目に入る。雨は地面を穿ち、撥ねた泥が沓脱石に付着する。明日もし晴れれば水を流して落とさないといけない。
きっと私はあの人にすればあの泥のような存在だったのだろう。亡き上司にイヅルは心中で批判的な眼差しを向ける。
本音の読めないあの人をひたすら支えた。けれど最後には放っていかれた。自分は連れて行ってもらえる。根拠もなくそう信じていた。
彼はあの人を嫌っていた。彼の勘は当たっていた。
まだ明かりが入らず、薄暗い廊下を歩く。暗闇でも隊長格の白い羽織は目立っていたなあ、なんて思う。
彼も目立っている。ここ最近だけど、その始解を見てからそう思い始めている。
私がいなくても彼は自分で立っている。恋次や義姉、そして黒崎一護のおかげで立っている。
君は知らない。いかに自分がきれいか。
君は知らない。いかに自分が優しいか。
君は知らない。いかに自分が好かれているか。
ぼろっとイヅルの蒼い瞳から涙が溢れた。
泣く必要はない。勝手に想像して傷付いているだけだから。

「…っ」

漏れそうになる喘ぎを押し殺しながら厠へ向かう。洗面台は見たくなくて個室に駆け込んだ。壁で仕切られたそこに入ると、溢れだした大量の涙が頬を濡らした。

「ッ、う…ぐっす……っく」

泣いても何も変わらない。そもそも何を変えるというのだ? 何も変えられないじゃないか。
あんな騒動の一因を担ってしまったことで完全に日向と陰に分かれてしまった。
時間は戻せない。分かりきった陳腐な言葉が反芻する。
何の躊躇いもなく下の名前で呼べていた頃が懐かしい。あの頃は楽しかった。私は。
壁に掌を打ちつけながら泣いていると、

「あの!」
「っ!?」

男性の声。しかも「彼」の声。あまりの衝撃に涙も止まってしまった。

「吉良副隊長はいらっしゃいますか?」

躊躇いがちな声。ここは女性用だから彼は入ってこれない。探られないのだから「いる」か「いない」かは、自分次第。
…黙ってやり過ごすことにしよう。涙目でイヅルはぎゅっと唇を噛み締めた。どのみちこんな顔では会えない。驚かせてしまう。
しかし鼻水を啜る音と泣き声は聞こえていたようで。

「いらっしゃらないのなら結構です。また日を改めて参りますので」

いないというのに言付けるのか。彼の優しさに触れてイヅルの視界は歪む。けれど唇は孤を描く。
自分も随分変わった。こんなふうに笑うことはなかった。
やがて足音が遠のいて完全に消えた頃、イヅルはそっと扉を開けて出た。誰かが来ないうちに部屋に戻ってしまおう。
そう思いながら洗面台で顔を洗う。赤い目が少しくらいマシになるだろうと思ったからだ。
顔が熱いのか水がやけに冷たい。二、三回洗ってさっぱりして顔を上げると、心臓が止まるかと思った。
鏡越しに彼と目が合ったのだ。

「わっ!」
「おわっ!」

二人で驚いてからイヅルは顔を隠す。濡れたままの肌や指が不愉快だがそれ以上に羞恥心が勝った。
どうやら彼はお手洗いを借りたようで、帰る時に目が合ったらしい。

「こ、んにちは」
「…こんにちは」

ぎこちなく挨拶をすると、彼は袖から手拭を取り出した。

「よろしければ、どうぞ」

思わぬ申し出にイヅルは倒れるかと思った。断る理由もないのでそろそろと手を伸ばして手拭を受け取ると、そっと顔に当てる。微かな彼の香りがまた心に痛い。

「洗濯してお返しします」
「いえ、それほどのものでもありませんので」
「いいえ、洗濯します」

何故だか妙な意地を張ってしまう。しかしこれで彼の手拭と一晩、いや一日一緒だ。
とりあえず厠を出て副隊長室に向かう。

「今日はどのような御用で?」
「書類の判を頂きに参りました。それと一か月先の討伐に関してお聞きしたいことがありまして」
「分かりました」

冷静を装いながらも内心では手を絡めてぎゅっと握っている。隣に立って歩いているだけなのに心臓が痛い。
副隊長室に着いてイヅルは茶を淹れた。その時初めて自分の手が冷たいことに気付く。どれほど厠に引きこもっていたのか。
茶と菓子を出して書類に判を捺す。

「で、聞きたいこととは?」
「はい。今回の討伐は森林ですよね。先日お聞きした情報では――…」

向かい合って地図を広げて話し合う。初めは緊張していたが、次第に解れて平静を取り戻す。

「――ですがそれではこちらの隊員が……」

イヅルが意見を述べて彼を見る。はっとした。ただ彼は菓子を食べているだけなのに。
甘い砂糖菓子を噛む彼の歯並び。舌、喉の動き。茶で流し込む音。

「……吉良副隊長?」
「どうしてそんなに綺麗なの」

イヅルは呟いた。

「えっ!?」
「どうして君はそんなに綺麗なの。何をしても綺麗だよね。ずっと思ってたけど」

彼は困った。今まで討伐の話をしていたはずなのに何故か綺麗だと言われている。

「あの、吉良副隊長…」
「どうしてそんなに綺麗なの?」

話がかみ合わない。彼の戸惑いを知らずに、イヅルは問い続ける。

「昔から思ってたんだよね。君ってすごく綺麗。大衆に埋もれているようで埋もれていない。誰かと一緒にいても輝いている」
「そんなことはありません」
「冗談言わないで。ずっと見てたんだから間違いないよ」

ずっと、に彼は反応した。

「ずっと、とはどういう意味だ?」
「ずっとって、ずっとだよ。私たちがあそこで出会ってから――」

ぱちりと瞬きをして、イヅルは息を止めた。私は今何を口走った?

「お前はずっと私を見ていた、のか?」
「えっ?」
「今言っただろう。ずっと見ていたんだから間違いないと。それはどういう意味だ?」

かっとイヅルはまた顔が熱くなった。思わず目を逸らすが正面から向けられる、強い疑いの視線が肌に突き刺さる。
いつの間にやら彼は敬語を忘れて、友人として接していた。

「吉良。素直に答えてくれ。このままでは私もすっきりしない」
「…それでいいんじゃないかな」
「えっ?」
「すっきりしないままでいいんじゃないかな。私はその方が嬉しい」

自嘲気味にイヅルは笑った。今のその笑顔は引き攣ってさぞかし無様だろう。

「君が好きなんだ。ずっと前から。身分違いなのは分かってる。でも諦めきれない。迷惑だろうからずっと黙ってたけど」
「…だから、見ていたというのか」
「君は相手にこれっぽっちも思ってもらえない悲しみが分かる? …分からないよね。私がこう言うまで気付かなかったでしょ」
「それは、」
「こんな形でも、私のことを思って欲しかった。それだけ。終わり」

半ば言いきるような形でイヅルは己の想いを告げた。
こんなのがいいわけじゃない。悪いのは分かっている。まさかこんなことになるなんて思わなかったんだ。
まだ雨は降っている。雷でも落ちればいい。あの轟音で今言ったことを忘れてほしい。
最低の最低。彼がいなければ一人で笑っているだろう。
…早く帰ればいいのに。

「最低でしょ。ごめんね、黙ってて。まあ今のも含めて独り言だと思ってよ。今日君は何も聞かなかった。ただ書類を持ってきただけ。そうでしょ?」
「……違う」

彼はぼそりと呟いた。初めて聞く低い声だった。

「何故はっきり言ってくれぬのだ! その方がお前も、私もすっきりするだろう!? 私に迷惑だと? 好意を告げられて嫌な奴はおらぬだろう!?」
「だって、君は朽木隊長と…」
「まだあんなたわけた噂を信じておるのか!? あんなもの出鱈目に決まっておろう!」
「でも君は貴族だし…っ他に好きな人がいたら困るでしょ!?」

それが本音だった。自分が傷付きたくないから黙っていた。「友人」という居心地のいい環境を壊したくなかった。
もはや二人は怒鳴るように話をしていた。

「私が貴族なのが嫌ならば私が婿入りすれば済む話だ! 他に好きな人だとか…は、おらぬ! 勝手に決めるな!」
「阿散井と仲よさそうだったじゃない!」
「あれは幼馴染だし同郷だから――」

そこで彼は言葉を失った。

「…何故目が腫れておるのだ?」
「関係ないでしょ」
「一世一代の告白をするのに目を腫らしたままする奴がおるか! 見せろ!」

言うと彼はぐいっとイヅルの顔を近付けた。体がふらついてテーブルに手を突く。いつのまに彼はこんなの背が高くなっていたのだろう。
覚悟を決めた訳じゃなかった。何となく無意識で言ってしまった。おまけに言い訳がすぎる。そんな奴の腫れた目を鬼道で治してくれるなんて、優しすぎる。…唇が触れそうなくらい、近付いて。
目を治すと彼はイヅルをソファに押し戻した。

「ほら!」
「……? 何?」
「言え! 私が好きなのだろう!? はっきり言わぬか!」
「えっ、ちょっと…!」

イヅルは思わず立ち上がって文句を言う。

「どうして今言わなくちゃいけないの!?」
「先ほどのは独り言なのだろう? ならば本番だ。ほら、言え!」
「あのさ…!」

そこでイヅルは、彼の頬が仄かに赤いことに気付く。偉そうに腕を組んでいるけれど、恥ずかしいらしい。
ぎゅっと死覇装の袴を握る。そんな顔をされたら言えなくなるよ…。

「どうした! さっさと言わんか!」
「別に今じゃなくてもいいでしょ!?」
「駄目だ! 今言え!」
「なんで!?」
「っ…もうお前が目を腫らすのを見たくないからだ!」

滅茶苦茶な筈なのに、イヅルの胸は高鳴っていた。……ますます好きになってしまったみたいだ。
そういえば雨も止んだようだ。イヅルは溜め息を吐いた。心は妙にすっきりしている。

「……別に、深い仲になりたい訳じゃない。側にいられればいいです。ずっと君が好きでした」
「うん」
「うん!?」
「あっ!? えーっと…」

イヅルは無理矢理答えを聞くつもりはなかった。けれど求めているような顔をしていたらしく、彼は顎に手を遣って唸った。
嫌なら振ってくれればいい。友人として接するから。そう言おうとして口を開くと、

「分かった。よし、付き合おう」
「えっ!?」
「私が一緒にいればお前はもう泣かないのだろう? 愚痴も悩みも聞こう。だから泣くな」
「あの、そういう意味じゃなくて」
「先ほども言ったが私が婿入りすれば良いのだ。気にするなよ」
「婿入りって…そんなに深い話までするの?」
「お前が言ったのだろうが。しかし夫が妻より階級が下では恰好がつかぬな……」

真剣な顔で彼は思案する。嬉しいような、悲しいような。イヅルはふっと笑った。