首筋を汗が伝う。右手には筆を、左手には団扇を。 「……あっつ」 どこかで蝉が鳴いている。もう八月を終えたというのに、朝も昼も五月蠅くて堪らない。 「イヅルぅー、お茶ぁ」 「御自分で淹れて下さい」 「いけず!」 三番隊詰所で、珍しくギンが職務に励んでいた。 どこに行っても暑く、歩くだけで汗だくになってしまうので、よほどのことがない限り詰所から出ないことにしたのだ。 思わぬ幸運(?)にイヅルも喜んだが、彼が仕事を始めた途端、何故だか空調設備が壊れてしまったのだ。 整備業者を呼んだが、猛暑であちこちの空調設備が壊れててんてこ舞いらしく、少々時間がかかると言われてしまった。 もちろん窓を開けたが涼しさには限界がある。今は何とか団扇と冷たいお茶で凌いでいるが、昼を回るととても耐えられそうにない。 「イヅルくんはいけずやなぁ。上司がお茶欲しい言うてんのに」 「市丸隊長はご自分でお茶も淹れられないほど駄目な方なんですか」 「あんなァ、ボクが本気でお茶淹れたらここ水浸しになるで」 「本気ってどういう意味ですか。お茶を淹れるのに本気も何もないですよ」 水浸しは止めて下さいよ、と呆れ気味に呼びかけるイヅルは次の瞬間、肌が粟立つほどの殺気を感じた。 何事かと振り返ると、冷蔵庫の前でギンがしゃがみこんでいた。背中しか見えない。しかしその背中に声をかけるのも躊躇われる。 音を立てないように椅子から立ち上がり、机を挟んで小さく呼びかける。 「い、市丸隊長?」 「ない」 「え?」 「お茶、あれへん」 バンッ、と勢いよく冷蔵庫の扉が閉じられる。隙間から冷気が漏れたがそれ以上にギンの殺気がすさまじい。 「お茶ないやん。なんでもっと早うに言わんの。なあ、イヅル」 くるりと滑らかにターンしてギンはイヅルに歩み寄る。目は普段と変わらないが、雰囲気はまさに鬼の様だ。イヅルは「んきゃっ」と訳のわからない声が出る。 「もっと早くに言うて、淹れれば良かったやん。なんで? イヅルはそないにできへん子やったっけ? ん?」 「いえ、あの…」 「ボク、イヅルには期待しとってんけどなァ。悲しいわぁ」 「もももも申し訳ありません! いつもなら三席が作っているのですが…!」 「なあ知っとる? 理由てな、事が起きる前に言うもんやで。起きてからやったら、言い訳になるんやで」 床を少し滑りながらイヅルはギンの前で土下座をした。ふっとギンの足が頭の数センチ先に迫る。イヅルはぎゅっと目をつぶった。 頭を蹴られるだけならまだいい。頭を蹴って肩も蹴って起こされて首を絞められるかもしれない。それくらい、この人はキレたらまずい。 感情の抑制の効かない幼い子供ならまだしも、護廷十三隊の一隊長を勤めているいい大人なのだから手に負えない。同じ男とはいえ抵抗できない。正直、もう身体が動かない。 ……僕の頭は鞠にされて楽しく日がな一日蹴られるのでしょうか。イヅルは息を飲んだ。 しかし、そこに救世主が現れる。 障子を叩く音がして、隊員が僅かに顔を覗かせて言う。 「市丸隊長。お客様です」 「誰や」 「十三番隊所属・朽木ルキアさんです」 「……ちょっと待っとき」 ふわりと空気が柔らかくなる。イヅルはどっと汗を噴き出した。ただでさえ暑いのが更に暑い。 「お茶、作っときや」 「はい……。申し訳ありませんでした」 ギンがいつもの飄々とした雰囲気を纏って部屋から出て行く。はっ、と溜め息が漏れた。心臓が痛い。肋骨が軋む。 あんな恐ろしい殺気を、ただ訪問したというだけでいとも簡単に変えてしまう彼女は素晴らしい。ずっと彼女が側にいれば彼は借りてきた猫のように大人しいだろう。 けれどそれはとても難しいことだった。 「ルキアちゃーん!」 へらっとギンは満面の笑みでルキアを出迎える。先ほどの般若は一体どこへやら……。 「こんにちは。今日も暑いなぁ」 「こんにちは。本日はこちらをお渡しに参りました。吉良副隊長でも宜しかったのですが…」 周囲に他人がいると途端にルキアは冷たくなる。他人を意識してのことだろうが、その方が露骨な気がする。二人の特別な関係は誰にも知られてはいけないのだけれど。 ルキアがギンに差し出したのは白い箱だった。シルバーの文字で何かが書かれている。 「これは?」 「現世での土産です。向こうでは夏にこれをよく食べるそうです」 「ふーん…あ、冷たい」 「冷凍庫で保存して下さい。溶けてしまいますので」 冷たくて、冷凍庫で保存しなければ溶けてしまう。ギンは何となく気付いたが黙っておく。 「そういえばな、ボクもキミにあげるもんあんねん。おいで」 ルキアが目を瞠る。それは正面から顔を合わせているギンにしか分からない微妙な変化だ。 暫し考えた後、ルキアはギンの後に付いて行った。 「三番隊詰所も空調が壊れているのですか」 「うん。十三番は直ったって聞いたけど」 「先日のことです。しかし私は朝から虚討伐に出かけておりましたのでまだ…」 「そうなん? じゃあこれは?」 「隊舎から持って参りました」 「朝からお疲れやねぇ」 くくっと笑いながらギンはルキアを隊長室に案内する。相変わらず蒸し暑い。 障子を閉めて二人きりになると、ルキアは大きく溜め息を吐いた。隣に座ったギンが不思議そうな顔をする。 「どないしたん」 「お前、吉良に何をしたのだ」 「え?」 「外にまで漏れていたぞ。…私も一瞬、日を改めようかと思った」 詰所の玄関にいたルキアにさえ気付かれるほど、ギンの殺気はだだ漏れだったようだ。 しかしその原因を話す訳にはいかない。 「ああ、ちょっとな。ほら、こない暑いやろ。イライラするやん」 「それは分からないでもないが…大切にしろよ。お前に愛想をつかさない貴重な人間だ」 「そやね。ボクからイヅルを取ったらキミしかおれへんもんね」 「私もあまりにお前が我が儘だったらどこかへ行ってしまうかもしれぬぞ」 「不安になること言わんといてぇな……まあキミがどこに行こうがボクは探して付いていくけど」 さり気なくストーカー発言をしてギンは箱を開ける。 中から白い冷気が溢れ、赤、薄桃色、橙、白……と、カラフルな細長い棒が五本ほど入っている。これは現世のアイスクリームという菓子だ。 おお、とギンが喜ぶ。 「冷たいんはこれか」 「そうだ。ドライアイスというものだ」 「美味しそうやなぁ。ルキアちゃんもこれ食べ」 ギンは赤色の棒を取ると箱をルキアに向ける。では、とルキアは橙色の棒を取る。 アイスを口に入れるとあっという間に暑さが癒されてゆく。 「うわ冷た。こっちでもこれ売ったらええのに」 「材料と器具があれば簡単に作ることができるらしいぞ。一護が言っていた」 「……そうなん?」 爽やかな苺の味。冷たいし美味しい。でも、胸がむかむかする。 「ルキアちゃんのは何の味なん」 「みかんだ」 美味しそうに棒を頬張るルキアを見てギンは更に胸のむかつきが激しくなる。 ――橙色があの少年を彷彿とさせる。 ギンは自分の分をさっさと食べ終えてルキアの手を取る。 「何だ。欲しいのか?」 「うん」 ……温いはずの舌が冷たい。思わぬ感触にルキアは呆然とした。 蛇の舌はぬるぬると指を這ってゆく。柱に巻きつく蔦のように。時々噛んで痕を残しながら。 アイスがじわじわと溶ける。口内で汁が混じって甘ったるい。 「――ルキアちゃん。なんで今日これ持ってきたん?」 「え? 今日はお前の誕生日だろう?」 ルキアが驚きつつも答える。 なるほど。誕生日プレゼントも兼ねて涼を届けてくれたのか。ありがとうな、ルキアちゃん。せやけど、ちょっと少ないかな。 残り少ないみかんのアイスを奪ったギンはそのままルキアに唇を重ねた。 甘い。甘すぎて頭の芯がとろけそうだ。 ルキアの頬が薄く色付く。 「――……ッ…いきなり、なんだ……」 「キミがおればもう他には何もいらんわ」 冷たいお茶も涼しさも甘い菓子もキミに比べればどうでもいい。 ギンはルキアを長椅子に押し倒した。