三番隊詰所に響く足音。共に聞こえるのは三席の声。お待ちくださいとか日を改めてだとか、諌める内容だ。
しかし足音の主は気にせず廊下を突き進んでいるようで、

「おい、開けるぞ」

すっと障子が開く。その瞬間、すぐそばではっと息を飲む、小さな音がした。
主はずかずかと部屋に入って来ると畳に膝を突いた。

「本当に喋れぬのか。嘘ではあるまいな」

ゆらりと銀髪が揺れた。


(突如、市丸ギンが声を出せなくなったというのは三番隊の機密事項だった。)
(それが誰が口を滑らせたのか、恋人の朽木ルキアに伝わった。)


ルキアはギンの隣にいる吉良に同じ質問をする。うん、と吉良が重々しく頷く。

「…嘘を吐いて良い日はとうに終わっておるのだから、怒るぞ」
「本当だよ、朽木さん」
「お前まで結託して私をからかっているのか?」
「今まで僕が市丸隊長の嘘に付いていけたこと、ある?」
「ないな」

即座の返答に吉良は複雑な気分になりながら、気まずい表情の三席を下がらせる。
とりあえずルキアに椅子を勧め、ギンに視線で問う。ギンはこくりと頷いた。

「…えっと、僕も正直驚いたんだけど」

朝、いつものように詰所にギンは来た。でも、挨拶がない。ひらひらと手を振るだけで。
おはよ、イヅル。そんな一言もない。
最初は風邪でも引いたのかと思っていた。けれど顔色はいつも通りだし、昨日も至って普通だった。それはルキアも知っている。
静かなことはいいことだ。でも、不満を漏らさず、軽口の一つも叩かなギンなんて、絶対どこかおかしい。
それで問い詰めたら、起きた時から声が出ないのだという。
話し終えた吉良をルキアはじっと見つめる。

「そんな顔しないでよ。本当だってば」
「仮に本当だとして、四番隊には行ったのか?」
「それが……」

ギンは口をぎゅっと食いしばって首を横に振った。「行きたくないんですよね? 」と吉良が問うと頷く。
はあ、と呆れた声がルキアの口から洩れた。

「原因が分からぬことには治しようも分からぬではないか…本当ならばな」
「まだ疑ってるんだ…」
「当たり前だ。こ奴が日ごろからどれだけ嘘を吐いていると思っているのだ。お前も苦労しておるだろう!」

一番の被害者の声に、吉良が否定とも肯定ともつかぬ声を上げる。「えっ」とギンが口を開けて、二人をおろおろと見る。

「何だ。文句があるなら言え」
「………」

ギンが珍しく困り顔をする。と、筆と紙を取る。
何だと紙を覗きこめば、

『ぼくは、うそばっかりついてない。どれもこれもほんとにそう思ってる』
「…汚い字だな」
「市丸隊長、文字なら標準語なんですね」
『当たり前や』
「あっ、訛ってます」

どうでもええわそんなこと、と書ききる前にルキアが筆を押す。ぐにゃりと曲がって解読不能になるツッコミ。
「あっ」とギンがルキアを見る。ルキアはどこか楽しそうに笑っている。
……怒るのかな。吉良が眺めていると、ギンはまた字を書く。

『悪さするキミも好き』
「そうか。とうっ」
『ちょっともうやめてかかれ』
「おりゃおりゃおりゃー!」
「……あの、市丸隊長。今日はもういいです」

吉良がうんざりと言った言葉に二人は顔を上げる。

「今日は僕一人で頑張りますから、今日は自宅で安静にしておいて下さい」
『ええの?』
「はい。声が出ないのなら何もできませんしね」
『ええー。それって、ぼく、おしゃべりしにきてるだけみたいや』
「違うのか?」
『キミまでひどい!』

業務に支障が出るのも至極尤もな理由だが、何よりも、本人たちは無意識であろうこの楽しげな光景が鬱陶しくて鬱陶しくて仕方ないからだ。
体はどうもないはずなのに、支えるようにしっかりと手を繋ぐ二人を送り出して、吉良は溜め息を吐く。
今日はこれでいいかもしれないが、明日はどうしよう、と。




「お前を家まで送ったら私は仕事に戻るからな」
『!?』

繋いだ手がぎゅっと強くなる。

「私とて忙しいのだ。有給は昨日使ってしまったし、私事で休むのはどうも……」

返事がないのは当然だが、何の反応も示さないギンはおかしい。話しながらちらと横を見ると、片手で一心不乱に伝令神機を打っている。
まるで現世の女子高生という女の子のように。そういえばルキアも一応女子高生という身分だったが、あんなに早くは打てなかった。
ずずいっと差し出された画面を見る。

『キミがいなかったらボクめっちゃさびしいし、何の応対もできない』
「っ……(この男は)、居留守を使えば良いではないか」
『もし泥棒とか来たらどないする?』
「鬼みたいに恐ろしい三番隊隊長殿の家に入る泥棒はすごいなあ。きっと命を捨てに来たのだろう」
『鬼みたいて、なんやそれ。ルキアちゃんはボクが泥棒殺してええの?』
「盗みを働くのだから罪人だし……だがまあ、生きるために仕方なく行っておる者もおるだろう。仕方ない。一緒にいてやろう」
『ありがとう、ルキアちゃん』

声に出す代わりにぎゅっと抱きしめられて、ルキアは赤面する。

「と…時と場所を考えろ、たわけ」
『かわええなあ』
「黙れ!」
『なありんご食べたい』
「聞いておるのか!!」
『買いもん行こう』
「おいっ!!」

声が出ない以外はいつも通りのギンである。照れ怒るルキアを商店街に引っ張ってゆく。
威勢よく迎えられた八百屋の店主にルキアが相好を崩す。
喋られないギンの代わりにルキアが注文すると「風邪でも引かれてるんですか」と心配された。

「三番隊はともかく、他隊にはどう説明するのだ」
『風邪でええんとちゃう。めんどくさいし』
「お前な……」
『お腹空いたなあ。お昼何する?』

――なんと能天気なのだろう、とルキアはうどんを啜りながら思う。
原因が分らず、もしかするとこれからずっと声を失ったままかも知れないのに、何故それほど軽く振舞うのか。
まあギンは元々楽天家というか適当な性格だし、深く物事を考えない。だが、それでは周りが困る。
トントン、とテーブルを指で叩かれて顔を上げる。ひょい、とどんぶりに入れられたのは海老の天ぷら。ルキアは面食らう。

「? どうしたのだ?」
『これ欲しいんじゃないの?』
「え?」
『だってずっとボクの方見てるから、これ欲しいのかて思って』

……人が心配しているのにこ奴は。
ルキアは少し呆れながら、でも笑いながら己のどんぶりから揚げを一枚、向かいのどんぶりに入れる。
今度はギンがきょとんとする。

「?」
「交換だ。食え」

くっくっと笑うルキアをギンはぼんやりと眺めた。
腹を満たした二人はギンの自宅へ向かう。玄関に足を踏み入れて開口一番、ルキアは溜め息を吐いた。

「またこんなに散らかしてお前は…おい、聞け!」

草履を揃えながら、ルキアは足袋を見る。うっすらと付着するのは埃か。
ルキアは家を訪れる度に掃除をするのだが、家主はせっかくきれいにしてもらった状況を保つ努力をしない。
おかげで床にもうっすらと埃か溜まり、畳の上にもお菓子の屑らしきものがある。布団は敷きっぱなし。
唯一清潔で綺麗なのは台所だけだ。…使わなければ汚れないのだ。

「口はきけずとも耳は聞こえておるし手足も動かせる。掃除しろ」
「……」
「…ならば私は帰るとするか」

がっとギンがルキアに抱きついた。

「掃除するか?」

小さく銀色の頭が揺れた。
帰宅したのが昼過ぎだったのが良かったのか、日が落ちかけた頃にはすっかりきれいになった居間で、のんびり茶を飲むことができた。
やや不器用な音を立てながらルキアが林檎を剥く。顔に感じる視線の主に声を掛ける。

「……何だ。まだやって欲しいことがあるのか」

ギンが頭を振る。そして紙と筆を取り、

『ルキアちゃんは何やってもかわええなあて思ったんよ』
「晩飯は作らぬぞ」
『うん。ええよべつに』

んふふ、とらしくない笑い声をギンは上げる。気持ち悪い奴だと思いながらルキアは溜め息を吐く。
こうやって大人しくしていれば甘えさせてやるのに、普段は時間も場所もわきまえずにべたべた触ってくるから嫌だ。
あまりにしつこいから怒鳴るとしょぼんと落ち込んで、可哀想かと構ってやるとまたべたべたしてきて、また怒鳴って。その繰り返し。
少しくらい落ち着きを持ったらどうかと叱ると「キミと一緒におって、じっと落ち着いてられるような男ていてへんよ?」と言う。
甘やかしたくなるような、いとおしい顔で。ああ私はこ奴が好きなのだと思う。
……剥いた林檎を食べながら、ルキアは雑誌を捲る。その指がだんだんと遅くなる。
背中に感じる体温。ぎゅっと抱かれた腰回りが落ち着く。かすかに香るのは酒の匂い。でも甘くて、嫌いじゃない。
うなじに当たる髪と、時折唇から洩れる吐息がくすぐったい。
決して眠いわけではない。ただ、落ち着くだけ。それだけ。
剥き終わったりんごを皿に盛ると、筆がまた言葉を吐きだす。

『今日泊っていけへん?』
「私は明日早番だぞ」
『ええよべつに』

珍しく大人しいギンを信じ、ルキアは雑誌を閉じる。
結局夕食も作り、風呂までばっちり入った。着替えは一応置いてあるのでそれを着る。
夜も更け、二人は横になる。一つの布団で。
それはギンが駄々を捏ねたためである。別々に敷いておいた方が翌朝都合が良いとルキアは言ったのだが、ギンが二つ敷くの面倒臭いし、と。
思わずルキアが

「お前、今日は妙に甘えるな」

と呟くと、ギンはそっとルキアの頬に唇を寄せた。伝令神機は充電中。わざわざ起きて紙と筆を取るのは面倒くさい。
どうせそんな理由だろうが、ルキアは大人しく額を差し出す。
ぱくぱくと唇が動く。ゆっくり動くので何とか読み取れる。

『ルキアちゃん』
「何だ?」
『愛してる』

行燈のぼんやりとした明かりの中、衣擦れの音が響く。ギンの手がルキアの頬を撫でる。

『キミにちゃんと声出して言いたいわ』




やがて、昼過ぎ。
スパン! と障子が勢いよく開く。驚いて皆が顔を上げると、

「ルキアちゃーん。お昼行こ!」

と聞き慣れた関西弁と共にルキアの姿が消えていた。ああ、また拉致されたのかと机に残った書類を見遣る。

「――離せ! まだ書類が残っておるのだ!」
「いーやーや。お昼は絶対一緒て約束したやんか」
「そんな約束しておらぬぞ! おい!」

ずるずると引っ張られてゆくルキアははっと足を止める。

「お前、声…」
「せや。出るようになったで」
「っ、そんなあっさり済ませるな! 吉良や三番隊の皆にも迷惑をかけたのだからもっと……」

怒りながらルキアはずんずんとギンに歩調を合わせる。しかし彼がそれを聞き流すのはいつものこと。

「あ、せや」

と、ギンは足を止めてルキアを見る。ふっと重なる影。
軽く触れるだけの唇は、昨夜額に触れたそれと変わらず温かくて。

「ルキアちゃん、愛してる」

声が出るいうんは、いいことやね。らしくない優しい声でギンは言った。