「あーあっつぅー」

間の抜けた声が外から聞こえた。
……また来た。

「なぁ朽木くんいてる?」
「え? はい」
「呼んできてー」

呼ぶなと言ったはずだ。同僚の裏切りに筆が止まり、紙面に染みを作る。
間もなく、障子の前で名前を呼ばれる。

「市丸隊長がお呼びです、朽木さん」
「…分かりました」

私が行けば他の人間に迷惑はかからない。
舌打ちをしながらルキアは部屋を出た。
門に向かうと木陰で涼んでいる人影――市丸ギンを見かけた。

「こんにちはぁ」
「こんにちは」
「遊びに行こや」
「またですか」
「どこ行こう?」

ギンは基本的にこちらの話を聞かない。慣れているがやはり腹が立つ。
いや、腹はとうに立っている。
彼女に呼び出されたおかげで書類が出来上がらない。会議に遅れる。些細な問題が積み上がっていく。
だがルキアが怒られたことは未だかつて一度とてない。相手が相手だから。
様々な遊び場を提案するギンにルキアは近付いた。襟を掴むと、がっと無理矢理に閉じる。
ギンは胸が大きいので少し苦労するが襟を大きく開ける必要はない。風紀的に良くないので再三注意したが直さないのでとうとう実行に移したのだ。

「以前にも申し上げましたがもう少し前を閉じて頂きたい。風紀が乱れます」
「あらやらし。何も言わへん思たらそんなとこ見てたん」

ギンはくすくす笑う。しかしルキアは苛立った様子で彼女を睨んだ。

「御用件は?」
「用件? 遊びに行こや」

堂々巡りの会話。ルキアは一旦断って詰所に戻り、荷物を準備した。といっても財布を懐に入れただけである。
ルキアは決めたのだ。今日一日は付き合う。ひたすら我が儘に付き合ってあげれば収まるだろう。

「お待たせ致しました」
「行く気になったんや」
「ええ。市丸隊長のせっかくのお誘いですから」
「へぇ」

二人は十三番隊詰所を後にした。
世間話をしながら暫くぶらぶら歩いていたが、ふとルキアは問い掛ける。

「宜しいのですか?」
「何が?」

きょとんとするギンにルキアは手を差し出した。

「手は、宜しいのですか?」
「ああ、……繋いでええの?」
「どうぞ」

差し出した手をギンはそっと握った。
普段は何かにつけて触ろうとしてくるのに今日は何もしないのか。変な人だ。
胸の内を悟られぬようにしながらルキアも握り返す。

「キミの手、大きいねんなぁ。意外と」
「一応は男ですから。市丸隊長の手は柔らかいですね。綺麗です」
「そう? お世辞上手やなぁ」
「お世辞ではありませんよ」

言いたくもない言葉を吐き出しながらルキアはギンの行く先々に付き合った。
金なら沢山ある。食事はこちらから奢った。欲しいものがあると言われるとそれを買った。どれだけ我が儘を言われようと、笑顔で受け流した。
骨が折れる作業だが仕方ない。暫く夢を見させてやれば良いのだ。
あちこちを移動し、気がつけば繁華街にいた。煙草や酒、安っぽい香水の匂いが鼻をつく。死覇装に匂いが移ったら嫌だ。

「なあ朽木くん」
「はい」
「次あそこ行こうや」

ギンが指した建物。それは男女が「休憩」をする建物だった。さすがのルキアも固まった。

「市丸隊長、あれは」
「どこでも行ってくれるんやろ?」
「ですが、さすがにあれは…」
「ん?」

時折見せる、有無を言わさぬ笑み。これで彼女は何もかもを欲しいままにする。この笑みで何人の男を拐かしてきたのだろう。自らも毒牙にかかるのか……。
背中を冷や汗が伝った。

「市丸隊長、止めましょう」
「なんで?」
「不純です」
「ええやん別に。したいからする。それだけ」
「私はしたくありません」
「ウチはしたい」

繋いだ手を、絡めた指を卑猥に動かす。その動きの意味は想像に難しくなかった。ましてやこんな場所だ。

「朽木くんと楽しいこと、いっぱいしたい。初めは嫌かもしれへんけどどんどん楽しなる。行こうや」

――なるほど。
妙にルキアの頭は冷静だった。
確かにこんなふうに誘惑されれば床に入ってしまうだろう。豊満な体つきの色白の美人に、耳許がぞっとするような声音で囁かれたら。

「…市丸隊長、やはり私は行けません」
「ほんならええわ。ここでするから」

さらりと爆弾を投下されてルキアはまた焦る。ここでするから、ってここは白昼の路上ではないか。
しかし安心したのはギンがルキアを路地裏に引き込んだからだ。さすがに往来ではしないらしい。
良かったような、悪かったような。
人のいない路地裏に入るとギンはルキアを壁に押し付け、自身をべったりと密着させた。柔らかな、しかし張りのある胸が存在をよりはっきりさせる。
ふふ、と愉しげにギンは笑う。あなたはそれこそ心の底から楽しかろう。しかし、ルキアは楽しくない。

「優しぃしたるわ。上手やねんで、ウチ」
「市丸隊長」
「ん?」

未だ絡めていた手を引っ張り、ルキアはギンに唇を重ねた。ギンがどんな顔をしているかは知らない。分からない。わかるのは、初めて触れた他人の唇は柔らかいということだけだ。
空いているもう片方の手で腰を抱き寄せる。胸はあれほど大きいのに腰は細かった。力加減が難しそうだ。

「――は…っ…」

ほんの数秒間のはずなのに、息苦しくなった。

「やはり……できません」

好きでもない男と寝るなんて、正直に言えば下品だと思っている。私はそういう人の相手をするのは無理だ。もっと自分を大切にして欲しい。
ルキアは正直に吐露した。

「私には、これくらいしか――」

言いながら、ちらりとギンの顔を見た。
驚いた。
俯いた彼女は耳まで真っ赤になっていた。

「市丸…隊長?」
「何」

裏返った声が返ってきた。

「今から帰らないと夜になります…戻りましょう」
「…うん」

人通りの少ない道を選びながら、ルキアは気付く。朝無理矢理閉じさせた襟はそのまま閉じられていたことに。
とりあえず三番隊隊舎に送ろう。気まずいまま、ルキアはギンの手を引く。
三番隊隊舎に到着したのは夕方だった。正門ではなくわざわざ裏口に回ってやる辺り、なかなかの心遣いだとルキアは自画自賛した。

「市丸隊長? 到着いたしました」
「うん」

では、と手を離す。夏特有の温い風でも涼しい。それほどに緊張していたのだ。
ギンは何の反応も示さない。それが気にかかるがルキアも詰所に戻らなければならない。
一礼して去ろうとしたが、死覇装の袖を掴まれた。思わず振り返る。

「あんな、朽木くん」
「はい」
「あないなこともうせんといて」

誰とでも寝るのに口付けは嫌だと言うのか。複雑な女心だなと内心皮肉っていると、ギンがようやく顔を上げた。まだ真っ赤だ。
顔を上げようとしながら出来ずに、首をうろうろと振りながら彼女は言う。普段の飄々とした様子からは想像し難い姿だ。

「心臓持たへんし……ますます、好きになってまうから」

せやからもうやらんといて、とギンは何度も言った。
しかしルキアは半分話を聞いていなかった。

「(何故私まで顔が熱くなるのだ……?)」