甘い香り。ギンは一輪の花を摘んで鼻に近付けた。純白の小さい花弁が風にそよぐ。
これ持って帰ったら喜んでくれるかなぁ。
ギンは軽やかな足取りで道を下ってゆく。カサカサと雑草が踏まれるたびに小さな悲鳴を上げる。

「あァ…今日もええ天気や」

空はどこまでも青い。柔らかな風が吹き、雲は穏やかに流れて、絶好のお出かけ日和である。
でもあの子はどこも行けへんねんやろうなぁ。
一人で道を下ること暫く、ギンは一軒の民家に辿り着く。
太陽の光に屋根瓦が黒く輝いている。対して壁は漆喰で白く、眩しい。扉は引き戸。昔ながらのどこにでもある家屋である。
引き戸を開けて玄関に上がる。青々とした畳の涼しさが足裏に心地よい。
やがてギンは廊下の突き当りの部屋の前で立ち止まる。
部屋の襖を開けると、微かに血の匂いがした。

「なんや。また噛んでるんか。噛んだらあかん言うたやろ」

顔にはいつもの笑みを張り付けたまま、口調だけを少し強めて言う。
部屋の格子窓は全て開け放たれていた。部屋には燦々と日差しが差し込むが、その空気はどこか陰鬱なものだ。
ギンはそのまま部屋に入った。

「また風呂入る前に治さなあかんな。何がようてそないに指噛むん?」

ギンは部屋の隅で立ち止まった。そこに人がいた。春らしい薄桜色の、牡丹柄の入った着物を着ている。帯は紅梅色。

「きれいなお花見つけたから取ってきてん。キミに似合うやろなーってな」

屈むと、ギンはその人の髪に摘んだ花を挿した。

「…思った通りや。よう似合とるで、ルキアちゃん」

名前を呼ばれて僅かに目を動かす。その瞳は変わらず美しい紫色だが、深い闇が湛えられていた。
ギンはそっとルキアの手を取ると、血が滲む指先に唇を寄せる。爪もぼろぼろだ。
可哀想になぁ、ルキアちゃん。こんなに寂しい思いをさせたんやなぁ。
普段なら、ルキアはギンを突き飛ばすだろう。けれどそんな元気は彼女には残っていない。
溌溂とした表情や機敏な動作はすっかり失われ、人形のようになってしまった。だがかろうじて五感は残っており、立って歩くくらいの簡単な動作は可能だ。
どうしてこんなことになったのだろう。ぼんやりと心の奥底で考えるのはそれだけだ。

「ええ天気やで。お外行こう」

晴れの日があれば曇りの日もある。雨が降って雷が鳴る。雪がしんしんと降り積る。
花が咲く。鳥が飛んでいる。川がさらさら流れていく。風が二人の髪を撫でていく。
ああ、自然はこんなにも美しい。
まだ傷だらけのルキアの手を引きながら、ギンはさっき来た道を再び上り始める。ゆっくりとしたルキアの足取りに合わせてギンもゆっくり歩く。
こんなにゆっくりと、二人きりで過ごせることはギンにとってすごく嬉しいことだ。昔はとにかく邪魔をされてばかりだった。
せやなぁ、特に煩かったんは六番隊長さんと幼馴染くんやった。
ボクがルキアちゃんと楽しくおしゃべりしとったらさりげなく現れて邪魔をする。しまいには声をかけただけで睨まれた。ひどいわ。
ルキアちゃんもルキアちゃんでボクを避ける。ボクに会わんように回り道をして。時間をずらして。誰かと一緒に居って。
ボクの何が気に入らんのやろうか。
ギンはぎゅっと手を握った。けれどルキアは握り返さない。むしろ引っ張られているに近い。視線は足元を見つめて虚ろだ。

「ルキアちゃん。もう少しやから頑張って歩こ」

呼びかけてギンはまた空を仰ぐ。時間はまだたっぷりある。
先ほどギンが花を摘んだ場所。それは小高い丘だった。長さは足首ほどの小さな花々が辺り一面に咲いている。もし天国というものが存在するのならばこんなところだろう。
ギンはそこに腰を下ろすと、ルキアも隣に座らせる。

「ほら、ええ匂いやろ?」

ギンが一輪摘み取ってルキアの鼻先に持っていく。微かにルキアの唇が動いた。

「……なぜ」
「何が?」

ルキアは顔を上げた。日差しを浴びても瞳は暗い。

「こうした」
「こうした、て?」
「なぜ、つれてきた」

ルキアの瞳はもう何年も暗いままだ。
仲間が死んだから。
友人が死んだから。
家族が死んだから。
わたしはしにたくてたまらない。
――助けたろか、ルキアちゃん。

「なんでって……大切やからやん」
「わたしは、みながたいせつだった」
「うん。ボクもキミが大切やで?」

にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべてギンは言う。はくはくとルキアの唇は、水を得た魚のように動き始める。

「おかしい」
「うん。何が?」
「たいせつなら、まもりたいはずだ」
「うん。せやからこうして一緒にいてるやん」
「わたしいがいのみなは」
「大切やないよ」

赤い宝石が日光に煌めいた。その輝きは毒々しく、血の色に似ている。

「ボクが大切なんはキミや。キミがいくら大切や言うたかて他の連中なんかボクはどうでもええ。むしろ、ムカつくねん」

大事なものは懐にしまっておけばいい。子供でも分かることだ。
ギンはルキアを抱き寄せ、膝の上に座らせた。

「キミはボクの傍におったらええんよ。ボクがずっと守ったるからな」





藍染は紅茶を啜りながら外を見た。散々破壊したというのに地表には草花が芽吹き、地面の凹凸を隠している。人間が押えていた分の反発なのか、それとも由来の生命力か。
その窓辺にはギンがもたれかかっている。

「全然見向きもしてくれませんわ」
「でも幸せだろう?」
「そら幸せですけど…」

ギンは不貞腐れた顔で愚痴を零す。

「じゃあ雛森くんを連れてくれば良かったかな。話し相手になるだろう?」
「えー、それも嫌ですわ」
「どれだけ嫉妬するんだい、君は」

同性にすら嫉妬をして蹴散らしたくなるとは。藍染は苦笑した。
大の男があんな小さな、大人と赤ん坊ぐらいの年の差がある女の子にこれだけ執着するなんて、面白い。
そういえば彼になぜ彼女がそこまで好きなのか訊いたことがない。きっと訊いても教えてくれないだろう。

「我が儘だな、君は」
「そんなことあらしまへん。ボクなりの愛情表現です」

爽やかにそう言うとギンは立ち上がった。

「また会いに行くのかい」
「はい。あちこち連れて行ったら気ぃも紛れるかなぁて」
「行ってらっしゃい」

行ってきます、とギンは子供のように駆け出した。





そう言えば、甘いもん食べさせてなかったなぁ。
ギンはルキアを連れてまた散策していた。
二人が歩いている「そこ」は繁華街だった場所だった。居酒屋や食堂、甘味処、様々な露店などが並んでいた。値段も手頃なので仕事帰りに仲間と一杯、という癒しの空間でもあった。
屋根がひしゃげ、窓がなくなった店の壁には血飛沫が飛んでいる。形が残っているのはいい方で、ひどい店は瓦礫の山と化している。そこに何の店があったとはもう誰も知らない。
今の世界には限られた人間しかいないのだから。

「甘いもん食べたいなぁ。何がええ?」

一応訊いてみるがルキアは相変わらず無反応だ。おもろないなぁ。心中ではそう思いながらもギンはあっちへふらふら、こっちへふらふらとルキアを連れ回す。
時々、かろうじて残っている店から気配を感じる。生活の為にわずかながら人間を残しているのだ。どれもこれも怯え、腫れものに障るような反応だ。

「餡蜜食べよか、ルキアちゃん」

からかい半分、食欲半分でギンは一軒の店に足を向けた。
ギンがぼろぼろの暖簾をくぐると奥から老人が顔を出した。

「餡蜜、作れる?」
「は、はい」
「じゃあ二つな」
「かしこまりました…」

青い顔で厨房に引っ込んだ老人を笑いながら、二人は店のテーブルに就いた。ところどころ塗装が剥がれ、木目が見えている。腰を下ろした椅子も座布団に穴が開いている。
今まで何人の客がここに座り、甘味を食しただろう。どんな会話をしただろう。
ほんまやったら、もっと早うにキミとこんなふうになりたかったわ。
ルキアが恋次や雛森らとよく甘味処に足を運んでいたのは知っている。たあいもない話をしながら仲間と過ごす心地の良さ。
ずうっと憧れとってんで、ほんまは。
そう語りかけてもルキアは眉一つ動かさない。ぼうっと外を眺めているだけだ。
やがて、先ほどの老人が碗を二つ運んでくる。少し縁の欠けた碗だが漆がきらりと太陽光を反射する。きちんと中身も収まっている。
だが、二人の碗は桜桃の有無が異なっていた。老人もそれを気にかけているのだろう、落ち着かぬ様子で口をもごもごさせている。
だがギンは機嫌を損ねることなく、桜桃のある方をルキアに差し出した。老人もそれに安堵し、頭を下げてまた奥に引っ込んだ。

「…ええなぁ。きれいや」

日に透ける寒天はこんなにも綺麗だっただろうか。餡蜜はこれほど輝いていただろうか。口に運ぶと上品な甘さが味覚を刺激する。
しかしルキアが手をつけようとしないので、ギンは彼女の唇を開けて桜桃を放り込んだ。すると途端に大きく目を見開いて口を押さえた。

「美味しい?」

ギンの問いかけには答えず、ルキアは口をもごもごさせて、茎を吐き出した。
ようやく、ルキアは餡蜜を食べ始めた。少し手が震えていたがきちんと飲みこんでいるようなので一安心だ。ギンも手を動かす。
暫く二人は黙々と餡蜜を食べた。静かな時間だった。
突然ルキアが泣きだすまでは。

「どないしたん」
「…じぶんがなさけ、ない」

今度はギンに対する文句ではなかった。けれどこの状況に対する文句ではあるのだろう。
さよか、とだけ言っておいた。溢れる涙を拭おうとも、慰めの言葉の一つもかけてやらなかった。
餡蜜を食べ終えた二人はまたあてもなくぶらりぶらりと漂っていた。しかし、ルキアがぽつりと川に行きたいと言った。
珍しい、ルキアからの提案である。言われるままにギンはすぐ近くの川に向かった。
日が少し傾いて、太陽が真上に空の来ていた。一番暑くなる時刻だ。
川に着くと、ルキアは帯を緩め始めた。これにはさすがのギンも驚く。

「どないしたん!?」
「みずあびをする」

しれっと言うとルキアは帯を完全に解いてしまった。そのままするすると着物も脱いで、白の襦袢一枚になった。
初めて見るその姿にギンは息を飲んだ。幼い身体ながら、どこか色気が漂っている。さらに月日が経てば匂い立つ魅力的な女性になるだろう。
ルキアは襦袢姿のまま、川に入って行った。その川はルキアの太もも辺りまでの深さなので溺れる心配はない。ギンはその光景を眺めていた。
川に入ったきり、ルキアはじっとしていたのだ。
何もせぇへんのやろか。

「ルキアちゃん?」

呼びかけたその時、ルキアは川の中にしゃがみこんだ。ギンは慌てて川の中に入る。いくら浅いからとはいえしゃがんだりすると首の辺りまで浸かるだろう。
何とかルキアを抱え上げ、ギンはこの日初めて怒った。

「何してるん。水が気道に入ったりしたらしんどいやろ。危ないわ」
「おまえもおこるのだな」

ふふっとルキアが笑った。今度はギンが黙った。

「このままだいていてくれ」

蚊の鳴くような声でルキアが言った。
こんなやつしか、わたしにはいないのだ。