耳元で不愉快な音がする。
頬に生温い舌が当たる。
涎で顔がべとべとになる。

「…何だ、お前は」

問うたところで答えは返ってこない。相手は猫なのだから。

「お前のせいで書類がくしゃくしゃではないか、莫迦者」

頼まれた書類を持って三番隊詰所を訪れたのは良いものの、隊長室に向かう途中、どこからともなく飛び出したこの猫に突撃を喰らったのだ。
毛並みのきれいな真っ白な猫だ。首輪がないので野良猫かもしれない。
猫は突撃した後、倒れたルキアの腹にそのまま居座っている。ぺろぺろとざらつく特有の舌で顔や耳を舐められ、くすぐったいやら痛いやら。
かろうじて手に持ったままの書類の端は思わず握りしめたのでよれている。
多少よれていようと市丸隊長は気にしない。あの人自身がよれているから。いや自身がよれているとはどういう意味だ。
誰が何が遅れても汚れても気にしない。ひっそりと顔を歪めるだけ。中身を知らない人はその姿態に優美さと風流を感じるだろう。
そう。中身を知らなければ。

「どこから来たのだ。早う退け」

ルキアが怒気を孕んだ声で言っても猫は悠々と欠伸をする。眠いなら縁側にでも行けば良い。今なら午後の柔らかな日差しが射して気持ち良かろう。
そういえば、彼と会ったのも午後の柔らかな日差しの中でだった。
昼食を終えて詰所に戻る前に寄り道をした。
瀞霊廷の隅には誰も目もくれない、放置された庭があった。庭と分かったのは、そこかしこに岩橋や池の跡が見受けられたからだ。
そういえば付近の建物は倉庫ばかりだ。以前はその付近も詰所などがあったのかもしれぬ。
ともあれ近付く者がおらず、静かな休憩場所を手に入れたルキアはそこに自生している林檎の巨木に上った。
様々な方向に伸びた焦げ茶色の枝からは小さな葉が生い茂り、上れば上るほど、別世界に迷い込んだような気分になる。
まさか木登りがこんなところで役に立つとは。お転婆だと注意された特技に苦笑しながら動きを止める。
少し開けた視界。どこからともなく小鳥の囀りが聞こえる。木漏れ日に目を細めながら太くたくましい幹に背を預けると、ほっと溜め息が出た。
職務が嫌な訳ではない。鍛練から逃げ出したい訳でもない。人間関係に疲れている訳でもない。

「(眠りたい…)」

静かに眠りたい。布団などでは得られない、安らぎが欲しい。けれどこれは我が儘だと思うので口にしない。口にしたところで叶わない。

「お疲れやねぇ」
「っ!」

自分の後ろに人がいた。いつの間に。振り返ると白い羽織りが見えた。

「(…あれが運の尽きだな)」

名を訊かれて素直に答えたら、しつこく愛を囁かれる羽目になった。隊長格に平隊員が逆らえる訳もなく、かろうじてルキアを守っているのは「朽木」の名だ。
毎日毎日どこにでも現れて、櫛だの簪だのを携えて話しかけてくる。一度商人になられたら如何かと提案したことがある。それくらい彼は様々な小物を持っていた。
部屋の引き出しには沢山の貢ぎ物が収まっている。いつかまとめて返そう。
ぼんやりと天井を見上げて考えていると、胸に違和感を感じた。
視線を遣ると猫がふにふにと腹から胸にかけて踏み荒らしている。何があって猫に胸を踏まれなければならないのか。

「止めろ。降りろ」

手で払うと猫は尻尾をぴんと振り上げた。機嫌を損ねたようだ。
いやそんなことはどうでもいい。早く書類を渡さねば。
ルキアはゆっくりと起き上がった。腰と背中が痛い。もちろん頭も痛い。

「全く…どこの猫かは知らぬが躾のなっておらぬ奴だな。土足で人の体を踏み荒らすとは。失礼な奴め」

ひょいっと猫はルキアの体から下りると、一鳴きしてたたっと駆け出した。またどこかに行くのだろう。

「一言くらい何か言え! 莫迦者!」

言葉なんて通じるはずがないが、思わずルキアは怒鳴った。気持ちを入れ替えて軽く尻を払って歩き出すと、角を曲がったところで再び猫に遭遇した。

「お前、さっきの…」

白い毛並みは忘れようがない。ましてやさっき顔を合わせたばかりである。
先程までルキアの体の上に乗っていた猫が廊下で爪研ぎをしていた。

「お前、そんなところで爪研ぎをしていては叱られるぞ。下手をすると食われるやも知れぬ」

体の自由がきけばあとは好き放題だ。大人しく爪研ぎをする猫の頭を撫でながら、ルキアは一人笑った。
大人しくしておれば可愛い。これは何でもそうだ。
たとえ三番隊隊長でも。
彼には妙に懐かれていて、膝を貸して差し上げたこともある。ルキアが逃げないよう、腰を抱き締めて昼寝をする様子は、端から見れば蛇に狙われる兎だったろう。
けれどルキアは、純粋に彼が可愛いと思った。
昼間でも破廉恥なことをさらりと言ったり、人目を気にせず愛を囁いてきたり、時には詰所にまでやって来る迷惑極まりないろくでなしだが、子供のそれのような優しい寝顔を見ると可愛いと思ってしまう。
時々尻を触ってくるので注意が必要だったが。

「外に出れば爪研ぎなど好きなだけ出来るであろう? 何故お前はここにいるのだ?」

ぴんと尖った耳をくすぐっていると、廊下の軋みを聞いた。
振り返ると、ギンが立っていた。

「いつまで経っても書類が来ぇへんから、もう帰ろう思てんけど」
「書類……」
「キミの手にあるんは何やろね?」

指摘され、ルキアは慌てて書類を差し出す。急に現実に引っ張り戻され、頭が付いて行かない。

「申し訳ありません!」
「珍しいねぇ、キミが」
「途中でこの猫にぶつかってしまいまして…」

理由にならない理由を告げると、足元に白い塊が近寄ってきた。なぁごなぁごと喉を鳴らしながら猫はルキアの足にすり寄る。
ギンは笑った。

「それ、ボクのんや」
「えっ?」
「羨ましいなぁ、お前は」

ギンは猫を抱え上げた。抵抗せず大人しく抱かれるあたり、飼い主というのは本当のようだ。

「美人やろ? せやけど野良やってんで」
「そうなのですか」
「まるでキミみたいやなぁ」

ルキアは首を傾げた。いまいち意味が分からない。少なくとも自分は美人ではない。とりあえず誤魔化しておく。

「何を仰います。市丸隊長の方が似ておられます」
「どこが?」
「全体的にです。その猫を見ていると、市丸隊長をありありと思い出しましたから」

突拍子もなく、口数も手も馬鹿みたいに多くて、可愛いあなた。
そっくりです。